山と木の家と。

山に行くと人は静かになるらしい。

山に行った日は帰ってきてからも、人間力が静かになっているらしい。


私の家は古い木の家で、ほとんど古いままで住んでいるので
天井を眺めているとたまに 静かだけどドキドキしたような気分になる。

あといつも人や虫や動物が近くにいるような感覚がする。
(まぁ実際ホントに近くにいる)

いっぱい隙間もあるし寒いけれど、
広くて快適な家です。


山で木の中で空を見上げても、
静かだけどドキドキした気分になる。

怖いわけでも 楽しいわけでもないけど 静かにどきどきする。

めがねめがね

只今 メガネ部 練習期間中です☆

初メガネ生活。

遠くの文字が、よく見える〜〜

こないだ



京都メトロで、初組み合わせのパフォーマンス。

ダンスと、音と、朗読のセッションしました。

楽しい事になりそうやなーと分かってやっても、やってみたら「もっとやれば、もっと楽しめるなぁ」と思うのはいつもの事。
やって、感じてみないと分からない事がいっぱいあるのもいつもの事。


それにしても、なぜかクラブという場所は落ち着くものです。
人混みは苦手やのになぜかリラックスするのです。


久々に朝まで起きてたら 2日ぐらいダメージ受けてしまった。。。

やっぱり歳か?!

名前

「沙」サ・シャ・すな
 1、すな=砂
 2、みぎわ。水辺の砂地。
 3、水中で細かいものをよりわける。

「代」(世・代)よ
 1、世の中。世間。
 2、人の生きている間。一生。
 3、同じ支配者が国を治めている期間。
 4、家督をついでいる期間。
 5、時代。時世。

「子」(接尾)
 1、女性の名に付ける語。


むかし どの子供も聞くような感じでお母さんに自分の名前の意味を聞いたら、
「沙代子の名前は、砂のように流れるってことやで。サンズイやから水辺の砂の感じやで。水におされて流れる感じ。あとヨは時代の代やで。」
みたいな感じの事を言われて、ふうんと思ったけど

「ってゆうか めっちゃイメージすぎて分かりにくいな。」と思った上に
「友達に言っても内容が伝わりにくいな。」と思い、
「・・・意味的に、悪いって事も無いけど 良くもないような??」と、

全体的にモヤっとしたのが感想でした。

あと「サヨコ」ってゆう音は お腹にいる時にそう思ったからそうなったらしい。


お母さんは、周りに流されながらでも進んでいけるっていうのは良いことやっていう。
そんな「周り」があるって事やしね。
流されたい時は流されたらいいんやでと、私はよく言われました。

気づけば、良く流されてきたような私。


何かを決めたあとは、いつもこの 自分の名前のことが頭に浮かんで、
あぁいつのまにやら 違う流れに乗っててんな私。と思います。

マレビトと炉端

今日はびわ湖ホールでマレビトの会を観る。

目の前の現実を、夢の景色のように仕立てた舞台だと思う。

だけど現実も、普通に夢の景色みたいなことが起こってて、夢みたいな時がいっぱいあるから

舞台という場所の中では、それは超現実なんだと思うことができる。

現実って、同時に複数のことが起こっていて、

個人の感覚も入れると、わけが分からないままいろんな事が一緒くたに進む世界だ。

それを視覚的に現す事が出来るのは、やっぱり舞台の特性で、

でも その複数を捨てて、(または思わせぶりに隠して)1つの決まったテーマみたいなのを現そうとする舞台がどれだけ多いことかと思う。

舞台の可能性はまだまだあると(少し大げさに言えば)、そんな事を考えた。


帰りに炉端焼きの店に行って、

飲食店はいろんな事が店中で起こってて楽しいなぁと思う。

いろんな人が店の中に集まってるからね。

だから飲食好きで辞められないんかな。

イッセーさん

兵庫県立文化センターに、「イッセー尾形のこれからの生活 2009 in ひょうご」を観に行った。


イッセーさんはすごい。
大いに楽しませていただきました。

前に観たのはもう何年も前で、その時も面白かったけど、
歳をとってさらに 力の抜けた面白さが出まくってたような☆

変わらぬスタイル、いつもの舞台、いつもの着替え。


たった一人で一時間。


私は前回観た時も、公演中6回ぐらいある着替え(1つのネタが終わったら、横の方で衣装を全部脱いで、次の衣装・かつらを着け メイクをして次のキャラクターになる)を見ていて
最後の1回ぐらいで泣きそうになったのでした。

今回も泣きそうになったので思い出した。

なんでかなぁ とは思ってませんが、 なんでそうなるのか 言葉でうまく表せそうにありませむ〜。

・・・・・

戦っている姿やからかな。


なかなか しっくりいく説明かも。


めっちゃ笑ったし、ほんと、あっぱれな舞台です。

帰りにサインと握手もしてもらいました〜(笑)

一緒に観に行った父は、イッセーさんの著書でなく「イッセー尾形の作り方」というワークショップ実録本みたいなのを購入。。。


えっ
・・・やりたいの?!?

(妹と私、目がおよぐ)


と思ったら これが面白いと販売の人が父に熱く語ったらしく、
じゃぁ読んでみてやろうかと、上から目線で買ったらしい。

でもお父さんも大笑いしてたし、
会場中大喜びで拍手してたし、

イッセーさんはやっぱりすごい。

このブログの

横の さかなちゃんのとこでダブルクリックすると餌がやれます☆

その上に 明日もRAINと出てる。
新しい靴を履いて行きたかったけど、やめといた方がいいなぁ。

いつデビューさせようか。

雨の日に

今日は朝から雨で、

得意のカッパにキャップをかぶって
自転車で会社に行ったけど、

ドアを開けたら朝礼が始まっていた。

そうや私って今週 朝礼当番やったわ。



急にブログを書こうと決めて、
初めての回?なので

以前人に書いてもらった「臼井 沙代子論」をここで。



臼井 沙代子

フランシス・ベーコンが自身の絵画を「残酷であり、恐ろしいものだ」と評された折りに
「動物としての人間の姿を描いているだけ」であると答えた。
この2つの異なる判断の間に、言語を基調としたロマンチスムが横たわる。
臼井沙代子のパフォーマンスは揺らぎのない言葉やその奥に人々が安易に見たがる理想的な(ときにステレオタイプにつぎはぎされた)景色、仕組み、物語、イデオロギーに回収されない。
なぜか。
生活に起因する生理感覚から生み出される運動としての判断、現場での肉体の呼応こそがヒトの本性であり知性であるという発想と技術に基づいた役者だからである。
シンプルで、パンクな存在。

テスト02

こんな奴は日本にはいない。しかも、アメリカでもない。何かここには別の人種がいる。いや、その人種と向き合った奴がいる。
 ぼくはこの「ごついもの」が秘める怖いような物語の塊りに怯(ひる)み、これをしばらく避けて、また、ヘンリー・ジェイムズ、メルヴィル、ホイットマン、ポーというふうにアメリカの時を溯っていったものだった(第429夜・第300夜など参照)。

 ヨクナパトーファ・サーガ。
 ヨクナパトーファ・クロニクル。
 フォークナーの多くの作品は「ヨクナパトーファ郡」という架空の地域を舞台にしている。インディアンの言葉で「水が平地をゆるやかに流れていく」という意味らしい。ミシシッピ州西北部、広さ2400平方マイル、1936年時点で人口は15611人。うち白人が6298人、黒人が9313人。
 そこにジェファスンという郡役所のある町があり、フレンチマン・ベンドというコミュニティがある。ここは「体面」をつくっているコミュニティで(いまの日本のように)、過去の歴史の都合のいいところ以外はすべて放擲するような連中ばかりがひしめいていた。ここには退屈、溺愛、暴力、保身、偽りの家庭、いいかげんな教育が、ぐるぐる渦巻いている(いまの日本のように)。

テスト。

「雄鹿は視界のなかに現われたのではない、ただそこにいただけであり、亡霊のようには見えず、まるで光がすべて体のなかに凝縮(ぎょうしゅく)し光の源 (みなもと)になったみたいに光のなかを動くばかりか、光をまき散らし、いつもの鹿のように人が先に鹿を見たと見えながら、そのほんの一瞬前に人を見て、 すでに走っていた。すでにあの最初の高く舞う跳躍を行ない、体を曲げ消えようとしていた。枝角(えだつの)は、あのおぼろげな光のなかでさえも、頭の上に おかれ均整を保った小さなゆり椅子(いす)のように見えた。」

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