雨の日に

今日は朝から雨で、

得意のカッパにキャップをかぶって
自転車で会社に行ったけど、

ドアを開けたら朝礼が始まっていた。

そうや私って今週 朝礼当番やったわ。



急にブログを書こうと決めて、
初めての回?なので

以前人に書いてもらった「臼井 沙代子論」をここで。



臼井 沙代子

フランシス・ベーコンが自身の絵画を「残酷であり、恐ろしいものだ」と評された折りに
「動物としての人間の姿を描いているだけ」であると答えた。
この2つの異なる判断の間に、言語を基調としたロマンチスムが横たわる。
臼井沙代子のパフォーマンスは揺らぎのない言葉やその奥に人々が安易に見たがる理想的な(ときにステレオタイプにつぎはぎされた)景色、仕組み、物語、イデオロギーに回収されない。
なぜか。
生活に起因する生理感覚から生み出される運動としての判断、現場での肉体の呼応こそがヒトの本性であり知性であるという発想と技術に基づいた役者だからである。
シンプルで、パンクな存在。

テスト02

こんな奴は日本にはいない。しかも、アメリカでもない。何かここには別の人種がいる。いや、その人種と向き合った奴がいる。
 ぼくはこの「ごついもの」が秘める怖いような物語の塊りに怯(ひる)み、これをしばらく避けて、また、ヘンリー・ジェイムズ、メルヴィル、ホイットマン、ポーというふうにアメリカの時を溯っていったものだった(第429夜・第300夜など参照)。

 ヨクナパトーファ・サーガ。
 ヨクナパトーファ・クロニクル。
 フォークナーの多くの作品は「ヨクナパトーファ郡」という架空の地域を舞台にしている。インディアンの言葉で「水が平地をゆるやかに流れていく」という意味らしい。ミシシッピ州西北部、広さ2400平方マイル、1936年時点で人口は15611人。うち白人が6298人、黒人が9313人。
 そこにジェファスンという郡役所のある町があり、フレンチマン・ベンドというコミュニティがある。ここは「体面」をつくっているコミュニティで(いまの日本のように)、過去の歴史の都合のいいところ以外はすべて放擲するような連中ばかりがひしめいていた。ここには退屈、溺愛、暴力、保身、偽りの家庭、いいかげんな教育が、ぐるぐる渦巻いている(いまの日本のように)。

テスト。

「雄鹿は視界のなかに現われたのではない、ただそこにいただけであり、亡霊のようには見えず、まるで光がすべて体のなかに凝縮(ぎょうしゅく)し光の源 (みなもと)になったみたいに光のなかを動くばかりか、光をまき散らし、いつもの鹿のように人が先に鹿を見たと見えながら、そのほんの一瞬前に人を見て、 すでに走っていた。すでにあの最初の高く舞う跳躍を行ない、体を曲げ消えようとしていた。枝角(えだつの)は、あのおぼろげな光のなかでさえも、頭の上に おかれ均整を保った小さなゆり椅子(いす)のように見えた。」

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